瀕死のカナリア

汚染された空気の中、窒息しそうなカナリアの、切れ切れの歌が聞こえる。

 街から遠く外れた森に、一つの沼があった。濃縮された恨み色の淀んだ水は、風の日にも波立つことはなかった。ただ、底に棲む何かの吐息かとも思わせる濁った泡が時折浮かぶのだった。

「太古の昔からたくさんの人間がここに引き込まれ、亡骸すらも上がらなかった」

と、古老は人々に語った。

「だからこの沼には近づいてはならない。この沼は邪悪なものの棲家なのだ。」

と。

 人々は沼の周囲に高い堤を築き、そこへ続く水路を暗渠とした。また、周囲の森林遷移が進むに任せたので、深い森が沼を隠した。

 

 街で暮らす人々は沼のことを意識しないでいる事ができた。

 だが、沼に続く水路は街の下水でもあった。沼には人々の暮らしから出てくる汚水だけではなく、人々の尽きせぬ欲望や果たせぬ不満、嫉妬、猜疑、恐怖といった心の澱まで、ありとあらゆるものが流れ込み、湛えられ、腐敗していったのだった。

 

 沼は次第にその暗い水を増やし、怨念の水は、ある日ついにその縁を越えた。

 森を浸し終え、ゆるゆると暗渠を逆流し、暗い水は街に現れた。最初それは濃密な湿気となって街を満たした。人々はその空気を吸い、沼の悪意を自らの中に取り込んだ。

 沼の水は小さな水溜りにもなって、街のあちこちに姿を見せた。最初は水の出現に驚いた人々も、そのうちに慣れてしまった。それほど緩やかに、全く意識できないほどゆっくりと、水が現れ、増えていったのだった。

 不思議なことに、水は澄んでいるように見えた。あの禍々しい沼からのものとは誰も気がつかなかった。向こう見ずで考えのない若者たちが、低地にできて深くなった水溜りで泳いだ。大人たちも子供が浅い水で遊ぶのを、微笑ましく見守り、一緒に水に浸かったりもした。年寄りたちまでが、水の恐怖を忘れてしまっていた。

 

 水は次第に増えていき、街をほとんど浸してしまったが、人々はそれにすらも慣れていった。

 そして、すでに自分たちが元の人間の姿をしていないことすらも、無感動に受け入れるのだった。

 いつのまにか、人々は精神の中に憎しみと怒りの沼を作り上げてしまっていた。

 憎しみや怒りは、最初はそれを持たない人々に向かった。まだ元の人間の姿を残している人は、形を変えてしまった人々に殺戮された。お終いには、形を変えてしまった人々同士も、憎悪と嫌悪にかられて殺しあった。

 街からは全ての人が消えてしまった

 

 このようにして、沼は街を支配し終えた。

 満たしてしまった廃墟に、初めて水がざわざわと波立った。

 それはまるで、沼が笑っているかのようだった